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キリストに倣いてを一日少しでも書くスレ

1 :ベルナデッタ:03/01/28 15:02
第二の聖書とも言われるデ・イミタチオネ・クリスチを
一日に少しでも書きまた読みましょう。

2 :ベルナデッタ:03/01/28 15:08
主は言っておいでになる、「私に従う人は暗やみを歩まない」と。
これはキリストのお口から出た御言葉であって、私たちがもし本当に光明を得、
心のあらゆる闇から逃れたいと思うならば、そのご生涯と御行いとに忠実に倣わな
ければならぬ、ということをすすめておいでになるのである。だから私たちは
イエズス・キリストの御生涯を黙想することをもって、第一の努めとすべきである。

3 :ベルナデッタ:03/01/28 15:16
キリストのみ教えは諸聖人のあらゆる教えに勝っているから、
キリストのご精神を 神をもっている者はだれでも、
その(御教えの)なかに「隠れたマンナ」(黙示録二・17)を見出すに相違ない。
ところが往々多くの人が、たびたび聖福音を聞きながらほとんど心を動かさずに入るのは、
彼らがキリストの御精紳を持っていないからである。それゆえだれでも
キリストのみ教えを十分に悟りかつ味わおうとするものは、
自分の全生涯をイエズスのご生涯と同様にするよう務めなければならぬ。

4 :ベルナデッタ:03/01/28 15:22
あなたがもし謙遜でなくて聖三位の思し召しにかなわぬならば,
聖三位について深い議論が出来ても、なんの役にたとう。
まことに人を聖人義人にするのは高尚な言葉ではない。
私たちを神に愛される者とするのは、ただ徳の高い生涯だけである。
私は痛快の定義を知るよりも、むしろ痛快を心に深く感じたい。
あなたがたとい聖書全部とあらゆる学者の言葉をことごとく暗記したところで
神を愛する心とその恩恵がなければなんの役にたとうか。
「空の空なるかな、すべて空である」(コヘレト1・2)しかし神を愛し、
これにのみお仕えすることは別である。
この世を軽んじて天国に入ろうと努めることこそ最高の知恵である。

5 :ベルナデッタ:03/01/28 15:29
痛快は痛悔のミスタイプです。

6 :ベルナデッタ:03/01/29 13:09
それゆえ滅ぶべき財宝を求めて、これを頼みにするのはむなしいことである。
名誉にあこがれて高い地位にのぼるのはむなしいことである。
肉欲にふけって、いつかきびしい罰を受けなければならぬ悪事を求めるのはむなしいことである。
長生きすることばかり望んで、善良な生活を送るよう心がけないのはむなしいことである。
この世のことばかり考えて、後の世の用意をしないのはむなしいことである。
たちまちに過ぎ去るものを愛して、終りのない歓楽の所に向かって急がないのはむなしいことである。

7 :ベルナデッタ:03/01/30 06:53
しばしば次の賢人の言葉を思い出すが良い、「目は見るに飽くことなく、耳は聞くに満つることがない」(コヘレト1・8)と。
だから目に見える物を愛する念を去り、見えない物に心を向けるがよい。
なんとなれば、五感の欲に従う者はその良心を汚し神の恩恵を失うからである。

8 :ベルナデッタ:03/01/30 06:57
人は生まれつき、知りたいと望む。けれども多く知ったところで、神を畏れる心が無ければ、何の役に立とう。
真に神に仕える謙遜な人は、自分という者をお留守にして、天体の運行を観測する高慢な学者より、はるかにましである。
本当に自分を知る人は、必ず自分をつまらぬ者と考えて、他人に誉められることを喜ばない。
たとい私が世の中のことをことごとく知ったところで、もし愛が無かったとしたら、神の御目から見てなんの役に立とう。
神は私の行いによって私をお裁きになるからである。

9 :ベルナデッタ:03/01/31 15:01
むやみに物事を知りたいと望む心を捨てよ。
なんとなれば、それは心の乱れと迷いを引き起こすに過ぎないからである。
いろいろなことを知っているものは、とかく他人に博学と思われ賢い人といわれたがる。
しかし、知ったところで霊魂に利益の少ないことや、あるいは全く利益の無いことが多いのである。
だから自分の救霊に有益なことを除き、その他の事を考えるのは、本当に愚かである。
おしゃべりは霊魂を満足させぬ。
ただ善良な生活だけが心をさわやかにし、
潔白な良心が神に対する深い信頼を起こさせるのである。

10 :ベルナデッタ:03/02/01 23:41
多く知り深く学ぶほどあなたの生活がいよいよ聖にならないならば、それだけあなたは厳しく裁かれるだろう。
それゆえどんなに技芸や学問があっても高ぶってはならぬ。
むしろあなたに与えられた知識のために畏れ慎むべきである。
もし自分は知識が豊富であり、理解が深いと思われるようなことがあったら、
自分の知らないことはまだそれよりたくさなるのだと思うが良い。
「高ぶるな!」(ロマ書1・20)むしろ自分の無知を認めよ。
あなたより学問も深く、掟にも通じている人がたくさんあるのに、なぜあなたは自分を人より偉いと思うのか。
もしほんとうにためになることを知り、かつ学びたいと思うならば、人に知られず軽蔑させるのを喜ぶがよい。


11 :ベルナデッタ:03/02/02 17:20
最も高尚で有益な学問は、本当に自分という者を知ってこれを軽んずることである。
自分をつまらぬ者と思い、他人を自分よりよい人偉い人と尊敬するのは、大きい知恵であり完全である。
あなたはたとい他人が公に悪事を行い、または重大な罪を犯すのを見たとしても、自分はかれより善良だなどと思ってはならぬ。
なんとなればあなたのその善良な状態は、いつまで続くかわからないからである。
私たちはみな弱い者である。しかしあなたは自分ほど弱い者はほかにないと思うがよい。

12 :ベルナデッタ:03/02/03 06:08
消え去る形象や言葉によらず、ありのままの姿で真理(神)ご自身から直接教えを受ける人は幸いである。
私たちの意見や感覚はしばしばあてにならないし、私たちの見る所はまたきわめて狭い。
だから奥深くてわからないようなことがらをいろいろ根ほり葉ほり考えてみたところで、なんの役に立とう。
そんなことは知らなくても、審判の日にとがめられもしないのである。
有益で必用欠くべからざる物事をお留守にして、ただ好奇心をそそる有害な物事に一生懸命になるとは、なんという愚かなことだろう!
まことに私たちは、目あれどみえずである。

13 :ベルナデッタ:03/02/03 13:15
私たちには物の種類や区別を論ずる学者の説など、なんの関係があろうか!
永遠の御言葉を聞く人は、さまざまの説に惑わされずにすむのである。
万物は一つの御言葉によって成り、全てこの唯一の創造主を語っている。
これこそ万物の本源であって、今も私たちにお語りになるのである。
この御言葉がなければ、誰一人明らかに悟ることも正しく判断することもできない。
この一つを全てとし、全てをこの一つに帰し、また全てをこの一つのうちに見る人は、
決して心を動かされず、神の平安を失わないだろう。ああ真理である神よ、私を永遠の愛のうちに、主と一つにして下さい。
多く読んだり聞いたりすることは、しばしば私をウンザリさせます。しかし私の願うもの望むものはみなあなたの中にあるのであります。
全ての学者は口を閉じよ、あらゆる被造物は御前に黙せよ、ただ主だけ私にお語り下さい!


14 :ベルナデッタ:03/02/03 13:17
人は精神を統一して、心をよけいな物からはなせばはなすほど、かくべつ骨を折らずともますます多く高尚なことがらを悟るだろう。
それは、天から知恵の光明を受けるからである。心が清く、純でしっかりしている人は、いろいろな仕事にも決して気を散らさない。
というのは、そういう人はすべてを神の御光栄のためにし、自分のためを思わぬよう努めているからである。
あなたの心のほしいままな情欲にまさってあなたを妨げ悩ますものがほかにあろうか?
善良で信仰の厚い人は、これから外に向かって行おうとすることを、まず心の中で順序立てて見る。そしてその仕事をするに当たって、
自分の悪い欲望に引かれず、かえってこれを正しい理性の命じる所に従わせるのである。
自分に勝とうと努力するより、はげしい戦闘がほかにあろうか?しかもこの自分に打ち勝ち、
日々自分を支配する力を増し、日ごと善に進むことこそ、私達の主要な努めなのである。

15 :ベルナデッタ:03/02/04 07:03
すべてこの世の完全には、必ず多少不完全な所があり、すべて私達の悟りにはあいまいな所があるのを免れない。
だから謙遜に自分のどういう者であるかを認めることは、学問を深く究めるよりも神に至るいっそう確かな道である。
しかし学問や、ある物事についての単純な知識は、それだけでは本来良いことで、かつ神に定められたものであるから、別にとがむべきでない。
ただ潔白な良心と善徳の生涯とは、さらにそれよりすぐれているというだけである。
ところが多くの人々は、善徳の生涯を送るよりも、知識を得ることに力を入れるから、しばしば間違った道に踏み込んで、効果が少しも得られなかったり、
得たとしても言うに足りないほどであったりするのである。

16 :ベルナデッタ:03/02/05 23:21
ああ、人々がもし知識上のことを問題にするほど熱心に、悪を去り善を行うのに努めたならば、
世間にはこれほど多くの罪悪や醜聞も起こらず、また修道院内にもこれほど多くの不規律はなかったろうに。
まことに、審判の日に私たちが尋ねられるのは、なにを読んだかということではなく、なにをしたかということであり、
いかに雄弁を揮ったかということではなくいかに信仰厚く生活したかということである。
この世にいた時博学の誉れ高く、あなたがよく知っていた学者や名士たちは、今どこにいるか、言って見るがよい。
彼らの職には今や他の人々がついており、彼らのことなどもはやただの一度も思い出して見ないだろう。
彼らは生きているうちこそひとかどの人物と思われていたものの、今となってはそのうわさをする人すらいないのである。

17 :ベルナデッタ:03/02/06 23:19
ああ、世間の栄えの過ぎ去るのは、なんと速いことだろう!
もし彼らが自分の生涯をそのすぐれた学問に相応するものとしたならば、
彼らの博学多読も無駄にはならなかったろうに。
世間には、神に仕えることをほとんど思わず、むなしい知識のために滅びに至る者がなんとたくさんにあることだろう!
彼らは謙遜よりもむしろ偉大な者となろうとするから、その妄想のために滅びてしまうのである。
真に偉大なのは愛を持つ人である。真に偉大なのは、自分をつまらぬ者と考えて、すべてこの世の物を糞土のように見なすひとである。
真に博学なのは、自分の意志を捨てて神のみむねを行う人である。

18 :ベルナデッタ:03/02/07 23:35
すべての言葉、すべての思いつきを信用してはならぬ。
どんなことでも、神の御前に出て、慎重に、落ち着いて、よく考えて見るがよい。
悲しいことには、人は他人のこととなると、しばしば善よりも悪をはるかに信じやすく、かつ語りやすい。
それほど私たちは弱いのである。しかし完徳の人は、どんな話でも容易には信じない。
それは悪に傾いていて、しばしば言葉で過失をしでかす人間の弱さを知っているからである。

19 :名無しさん@3周年:03/02/08 00:12
スレのむだ遣い。
法王スレにもカキコして保全してるし。
何が目的なんだか気持ちワリイし。

20 :名無しさん@3周年:03/02/09 00:27
 次の文章はある著作から抜書きしたものですが「キリストに倣いて」が題材なら、
これに対する正しいメッセージをあなたなりのものでよいですから聞かせてもらえますか?

「行動への勇気をくじき、この世で試みることができるいっさいの営為から完全に
超脱するようにひとを導き、その結果、その人間を他人にたいして無用な存在に
してしまうという、一般にキリスト教に向けられている非難は、部分的には妥当と
される唯一の非難であるが、おそらく『キリストにならいて』は、その受動性への
たえざる薦めによって、この非難を正当化するものであろう。」

21 :ベルナデッタ:03/02/09 02:46
>20私が知っていることは、聖テレーズ・マルタンが暗記していた・・その程度です。
ことを軽率に行わず、また自分の意見を頑固に押し通そうともしないのは、非常に賢いことである。
人の話をことごとくは信ぜず、また自分の聞いたこと信じたことを、すぐに他人にもらさないのも、やはり賢いことである。
分別のある正しい人に相談するがよい。ひとりよがりの考えに従うよりも、むしろ自分よりもののわかった人の教えを求めよ。
善良敬虔な生涯を送れば、人は神の御目に賢明なものとなり、さまざまのことから教訓を得ることができる。
人は心が謙遜になればなるほど、また神に従えば従うほど、万事にますます知恵と安心を得るだろう。

22 :ベルナデッタ:03/02/09 13:58
聖書中に求めるものは真理であって、美しい言葉ではない。聖書は全てそれを書いた人の精神を汲んで読むべきである。
聖書からは言い表しかたの巧みさよりも、むしろためになることを求めなければならぬ。
高尚深遠な書物と同様、信心を深めるやさしい書物をも愛読するがよい。
著者の名声に迷わされず、その学問の深い浅いを問わず、ただ真理を愛する一筋の心からこれを読むべきである。
誰の言葉かということは問題にせずともよい、ただその言葉の内容に注意せよ。


23 :ベルナデッタ:03/02/09 14:03
ベルナデッタのマリアのお告げはパンセからの盗作

聖書によって判断することになれている人びとは、聖母によるものを
何も理解しない。というのは、彼らはまず一目で洞察しようとして、
聖母を求めることには全然なれていないからだ。また、その反対に、
聖母によって推理することになれている人びとは、聖書によるものを
何も理解せず、そこに聖母を求め、ひと目で見ることができない。 
― ベルナデッタ 

直感によって判断する習慣のついている人々は、推理に関することがら
については何もわからない。なぜなら彼らはまず一目で見抜こうとし、
原理を求める習慣がついていないからである。 これに反して、原理に
よって推理する習慣のついている他の人々は、直感に関することがらに
ついては何もわからない。彼らはそこに原理を求めようとするが、一目
で見ることができないからである。
― 中公文庫、パスカル「パンセ」p11 より

24 :ベルナデッタ:03/02/09 14:09
>>23
私とは関係のない人です。他のベルナデッタさんです。

25 :ベルナデッタ:03/02/10 23:55
人は消え去る。しかし「主の真理は永遠に消えることがない。」(詩篇116・2)神はえこひいきなく、私たちにさまざまの方法でお語りになる。
聖書を読む時、よく私達の妨げとなるのは、ただアッサリと読みすごすべき所を、しいてむつかしく解釈しようとしたり、いろいろせんさくしようとしたりする好奇心である。
もし聖書を読んで利益を得ようと望むならば、謙遜に、すなおな信仰の厚い心でこれを読み、決して学者だという評判をとろうなどとしてはならない。
疑わしい所は進んで問い、黙って聖人がたの言葉を聞くがよい。また年より達のたとえ話も嫌がってはならぬ。なにか道理がなければ、そういう話をするはずがないからである。

26 :ベルナデッタ:03/02/11 16:20
人は何かの欲望がむやみに激しくなると、たちまち心の落ちつきがなくなるものである。
だから高慢な人と貪欲な人とは決して心の安まる時がないが、心の貧しい人、謙遜な人はいつも非常に心が安らかである。
まだ全く欲望の死んでいない人は、誘惑にかかりやすく、ちょっとしたつまらぬことにも負けてしまう。
精紳が薄弱で、まだいくらか肉欲に引かれる所があり、五官を喜ばすような物事を好む人は、この世の欲望から全く逃れることはなかなかむずかしい。
それゆえそういう人は、自分の欲望を抑えようとする時にはよく悲しみを覚え、誰かに反対されるとすぐに腹を立てるのである。

27 :名無しさん@3周年:03/02/11 16:26
>>1さん
サラゴサのマリヤ:スペインのサラゴサのマリヤ像(AD40年に出現したというマリヤ)
には13キログラムの黄金とダイヤモンドが冠に使われています。
あまりにダイヤモンドが多くて黄金が見えないほど。それ以外にも、
エメラルド、ダイヤモンド、黄金でできた6つの冠をつけています。
黄金を縫い込み、ダイヤモンドなどの宝石の薔薇で飾った365枚の
衣装を着ています。
それに、真珠とダイヤモンドでできた365個のネックレスに、
ダイヤモンドを配した黄金のチェーン6本をつけています。

このマリヤ出現の物語。
http://www.theworkofgod.org/Aparitns/Others.htm#Our Lady of the Pillar
AD40年、ヤコブがスペインに伝道にきて挫折したとき、
よるにマリヤが出現して、木彫りの像を渡して、
私のために神殿をつくりなさい、と言ったんだそうです。

でもカトリックの百科辞典では48年没だそうです。
http://www.newadvent.org/cathen/15464b.htm
マリヤが死ぬ前に出現したマリヤって、誰?

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